昭和四十七年十月一日 朝の御理解
X御理解第四十七節 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」
私共小さい時から、頭が痛いと言えば御神紙を頭に、貼ってもらいました。お腹が痛むと言や、御神米を頂かせてもらいました。又はお神酒さんを頂いた。ですから薬という事をあんまり知りません。もう極端な薬嫌いになってしまったんですけれども。薬を頂かんでもやはりおかげを頂いて参りました。今合楽でも例えば、久富さんあたりのようにみんな薬を頂かんで、どうかある時には御神米、お神酒さんだけでおかげ頂いておるという。家族をあげて、そういう人達が段々増えてきたという事は有難いと思うんです。
かと言うてその、教祖様は薬を飲んではならぬとはおっしゃってない。また医者にかかってはならないともおっしゃってない。薬も神様にお願いをして、祈って、薬を頂けとこうおっしゃっておられる。薬でもやはり神様のお恵みのものとして、頂けというのである。そうすると今度薬を頂きまして、例えば腹の痛いのが治ったとすると、あゝあの薬は効いたと、いう気持ちと、神様のおかげを頂いたという気持ちと、何か半々のような感じがする。本当言うたら、薬を頂いてもです。その薬そのものが神様のお恵みのものだから。いわゆるおかげを頂いたというだけでよいのですけれども。何とはなしにそんな感じがする。
薬れ祈れにするからおかげにならん、とそういうような事じゃなかろうかと思う。薬を飲むとどうしても、薬が効いたような、薬でおかげ頂いたような、そういう心がおかげにならぬ。ここで言うおかげにならぬというのは、どういう事だろうか。例えば皆さんお薬を飲んで、おかげを頂いておる。信心がない人なんかは、皆やはり医者だ薬だという一本でいきますからねえ。それでもやっぱ無事に全快をして、退院をして来るとか、又その薬で、やはり腹痛が治るというような、おかげを頂いておるのにもかかわらず。そのおかげにならんとおっしゃっておられる。
だからそういう例えば、病気が治ったとか、退院が出来たというような、意味のおかげではないようです。おかげにならんと断言しておられるのは、これは本当の意味に於てのおかげの事です。本当の意味に於てのおかげというのは、病気が治ったという事ではなく。その病気を通して信心が分かった、というおかげ、又はその問題を通して、力を受けた御徳を受けたというおかげなんです。成程ここになると分かってくる。ですからそういう例えば、薬を飲まなければならないような事になった場合です。その事を通して、信心が分かり、その事を通して力になり御徳の受けられる、ような信心の進め方。そういう信心の在り方というものを身に付けなければいけないという事になるのです。
ですからこれは祈れ薬れにすればおかげも早いがとおっしゃっておられる。今日は薬を飲む前に、まずそれを神様にお供えをして、神様頂きますという、気持ちで頂けばと、いうそういう意味ではなくてです。私は最後のところの、おかげにならんと、薬れ祈れにする。だから薬れ祈れという事を、おかげを先に言うから、おかげにならんと、いう事になる。ここでのおかげというのは本当の意味に於てのおかげ。その事を通して信心が分かった。その事を通して御徳を受けた、というおかげにつながるのです。
この辺のところを御理解を頂いておりますと、もう教祖様の教えておられる事にはもう、一事の無駄もないですねえ。どうしておかげにならんと断言してござるじゃろうかと思うです。現におかげ頂きよるじゃないか、薬で治っていきよる人は沢山あるじゃないか。又ああいう難病が、退院をして帰って来ておられるじゃないか。だから薬を飲んでも病院に行っても、その事を病院に行ったら、御徳にならんとか、薬を飲んだら力にならん、という事では決してないのです。病院に行っても、お薬を飲んでも、その事を通して、力を受ける徳を受ける、という生き方。そういう言うならば、姿勢を作るという事は信心が先にならなければいけない。
その事を通して信心が分からせてもらう。信心が勿論分かる事によって、おかげも頂く。退院のおかげになった。痛いのが治ったという事にもなる。昨日から黄揚会の方達が一日入殿をやっております。青年会の若い層の方達です。二十四、五才以下の人達ばっかり、まあ言うなら、若い身空でです。信心を分からせて頂こうと、本当の信心を分からしてもらおうという願いの元に入殿をしておる。どげんかあるから、悩みがあるから、病気をしておるから、というのではないのです。祈れ薬れにすればおかげも早いがというのは、そういう事なんです。
どうかあるから、信心するというのは、信心が非常に遅々として、進まないです。もうそれで一生終っていく人がどの位あるかしれません。金光様ちゃ有難い神様だ。御利益を受けられる神様だ。お取次を頂いてお願いをすりゃ、おかげが受けられる、と、こういう生き方ではです。所謂、おかげは遅い訳です。言うならば信心の分かるのが遅いです。おかげにこだわるから。だからおかげも早いがというのは祈りというものを先にする事。信心という事を先にするという事。黄揚会の方達がそういう信心修行に取り組んでおるという事はです。
今日の御理解から言うと、祈れ薬れにしておる訳であります。まず信心を分からしてもらおうというのです。そうしたらおかげも早いというのは信心が急テンポに進んでいくのです。信心一途ですから。けれども、ただ求める心やむにやまれん求道心が、そういう事になってくるのでなからなければ、どうか信心が分かりたいというそういう願いがです。例えば入殿でもさせてもらって、又は修行でもさせて頂いて、真の信心を分からして下さいという行き方ならば、もう信心が非常に早い。だから若い人達の信心はきれいだという訳です。
昨日は、私の方の妹の泰子の亡くなりましてから丁度百日に当たっとりましたから、百日祭が内々で、内々だったけれども、本当に盛大な、お祭りでございました。もう親の願い、主人になります勝美さんの思いというものがそこに結集されてね。まあ例えて昨日、大盛の方に、こんな大きな桶にいっぱいのお寿司のお供えがあっておった。私は久留米の高橋さんの所とばっかり思うておった。ところがちょっと寿司が違うごたるから、これは一体どこの寿司かと、聞きましたら、これは久留米の次郎長寿司だと、こう言う。どうしてそんな次郎長寿司とか、おいしくなか寿司を買うて来て、どうして高橋さん方にお願いせんかと、私は言うたら。
それがもう泰子が寿司はもう次郎長寿司に、決めて、次郎長寿司がおいしいおいしいと言よったから、やはり次郎長寿司にしたという訳なんです。もう細かい細かい神経が使ってある。そういうお祭りでございました。私は昨日、もう前々からお願いがしてありましたし、皆さんの、朝の御祈念の後に、お届け帳を終らせて頂いてから、今日の泰子の百日祭の事を、お礼申させて頂いておりましたら、神様からこういうお詠を頂いた。[「子のために悲しむ親の心にも勝れる神の心をぞ知れ」]という。
二、三日前久し振りで私の部屋に妹がやって参りましたから、一緒にお食事させてもらった。まあ本当に一緒にご飯頂くかちや何年振りかじゃろうね、と言うて頂いた事でした。そしてまあいろいろお話を致しますのに、もう本当に、泰子が亡くなって百日にもなるけん。もう少しは悲しみは薄らぐじゃろうかと思や、先生、私は益々悲しゅうなるのです。そうもあろうと思う。親一人子一人でもう本当に皆さんも御承知のような、状態でおかげ頂いてきとりますから、そうもあろうと思いますけれども。スマ代それでは信心のある者もない者も同じ事ぞと私が、‥‥。
成程目の前が真暗になるような、言うならば悲しい事がです。本当に突発的という程に起きたのですけれども。その時はそうであろうけれども。それでは信心のある者もない者も、同じじゃないか。それは理屈の上では分かっておる。信心しておって、変った事が起きてきたら、有難いと心得て信心せよとおっしゃる。信心しておって、どういう事が起きてきても、それをおかげと心得て、信心せよ。これは私の体験が一番いいです。様々な事が起って参りました。それこそ目の前が真暗になる事やら、血の涙が流れるちゃこんな事だろうか、というような事がありましたけれども。そんなら、そういうたんびにです。
私の信心は飛躍しておったという事です。その事自体を有難く受けていったという事です。そんなら私が引き揚げて帰って、弟の戦死を聞いた、時なんかもやはり、それは大変な悲しい事でした。けれどもその事のおかげで、です。私は今日の合楽があると言うてもよい位な、大きな有難い意味に於てのショックを受けたんです。とても今迄の信心ではいけないという事であった。いわゆる今日の御理解で言うならば、薬れ祈れの方ばっかり、おかげおかげの信心であったけれども。いわゆる祈れ薬れにしなければならないという信心がようやく、芽を出してきた訳です。
そしてその弟の戦死がです。成程こういうおかげを下さろうとする、神様の願いであった事が分からしてもらうと、今の詠の意味が皆さん分かるだろうとこう思う。子の為に悲しむ親の心にも勝れる神の心をぞ知れ。神様はそういう事ではない。もっともっと本当な意味に於てのおかげを下さろうと、しておる。親が悲しんでおるのにも、まして悲しんでござる、というのじゃなくて。お前達は肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃるけれども。肉眼をもって見るから悲しいんだけれども。心の眼をもってすると、神様の心が分かる。その神様の心というのはです。とてもとても、親が悲しんでおる位の事ではない、思いをもって、おられる事が悟れれる、分かるのだと、いう訳です。
お祭りを仕え終らせて頂いてから、皆さんに御理解を聞いてもらった。昨日ね、午後の奉仕の時、私は、出て来ようと思って、ちょっと水道ひねったところが、水が出ない。あら水が出ないがどうした事かと、言ったら、今、工事か何かあってるからだろうという訳なんです。私は霊祭の準備が出来とるかどうか確かめる為に神饌室の方にやって来た。そしたら丁度御結界の後の畳が一枚はぐってある。あらこげん所で何しよるだろう、と思うて、そこへ来たのと、その畳の一枚あいた所から、顔をにゅっと、その電気工夫さんが出したのと一緒でした。
そして私が今日はどうして水が出らんだろうかと言よったら、丁度上野先生が奉仕してましたから、いいえ今日は工事がありよりますから、今停電しとりますとこう言う。そげん言うたのと、工事の方が頭を出したのと、電気を見たのと一緒でしたが、電気がついとるのです。もうそれこそ一遍に真っ青になりましてね。その電気工夫さんが、「こげなこつしよるなら、私しゃ死んでしまうばの」と言うてから、上がって来たんです。もう本当にアッという間でしたね。二百五十ボルトの電気を扱っていた。三男さんが二百ボルト位迄なら扱えるけれども。二百五十ボルトと言うと、やっぱ専門家でなければ扱えない。
だから電気のスイッチを切って、そして事務所にも、二、三十分間停電するからという事を言うて、そんなら仕事に入った訳です。そして仕事を終って、首を出したのと電気が来たのと一緒でした。私しゃもうそれを思えば思うほど、です。もうほんなこて、冷たい思いがする位です。その電気工夫さんがそんな事するなら私しは死んでしまうばのと、言うてから上がってきた。もう何秒の差でした。それを外であれだけ工事をしておるのに、水が出らんから、外の方でスイッチ入れとる訳です。末永さんは、水が出らんという事だけじゃろうから、裏に言うとけやよかと思うてから、勝手の方だけに水が止まるからと言うて、知らせた。そして、仕事の方に言うとらじゃった訳です。
けれども本当にもう神様のおかげというのは本当に、恐れ入ってしまうですねえ。ほんな、畳一枚の所から仕事が終って首を出した。途端に電気がついとる、のじゃからですね。もう本当に身の毛のよだつような話です。ここ迄無事ゆえで何にもないままで、おかげで御造営も成就していきよるのに、もういよいよ間近の仕上げになって、例えばここで、そういう事故でもあったというならね。神様に対しても相済まん事である。もうアッという間、の事でしたけれども。そういうおかげを頂いた事を、神様にすぐお礼を申させて頂きましたら。
『天井のコンクリートが、しょうが悪いから破れたという感じでこの位の穴があいておる。その上にもう、いっぱい電線が張り巡らしてあるところのお知らせを頂いた。例えて言うと、ここの工事がどうの、あそこが悪いのと不平を言うたり不足を言うたりしよるけれどもです。けれども、そういう例えば手違いといったような事のおかげで今日助かったという、順調に行っとったら、助かってなかった。してみるとです、私が言う成り行きを大事にしなければならない。言わば御事柄として受けなければ、相済まんという事が分かるです。
それは自分の思う反対の事であっても。私共が思う反対の事がずっと起ってきておるから、仕事の順序というものが互い違いになった。互い違いになったから、死ぬると生きるの互い違いになるのです。こげん一緒にタイミングがよかったら、ほんな放そうと思った瞬間に、電気がついたなんていうそげん素晴らしいタイミングがよかったら、悪い意味で‥‥、もうそれこそ黒焦げになって死ななければならなかったでしょう。もう本当に御事柄という事をです。成り行きを大事にすると言うか。それは、そげな困った事と思う。けれども、私共には分かりませんけれども。神様の御働きとして、御事柄として、受けていく信心をいよいよ、しなければいけないという事を、です、今日頂いたが。』
泰子が亡くなったという事もです。それは人間的には悲しい事だけれども。その事がどのような神様の素晴らしいお働きの中に、あっておるか。いわゆる勝れる神の心をぞ、知らせて頂いた時にはです。お礼を申しあげるより他にはない。叩かれれば成程痛い、肉親の者を亡くする事は悲しい、悲しいけれども。お礼を申し上げねばおられない。心が開けて来なければ、いけないじゃないか。もう今日、百日という日も過ぎたのであるから、百日祭を境に、その只亡くした悲しみだけでなく、悲しいけれども有難いというものを、お供えして行かねばいけんぞと言うて。私は昨日、あそこへお花が入れてある、あのお花の事で聞いてもらった。
愛子がお花をお供えしたいと言うて、庭からコスモスを沢山取って来ておる。そしてあの徳利に、しよりますから。そげなもんにせんでん、花瓶があんなに沢山あるのに、お前はどうして、そげなもんにするかと、他のものがどうしても合わん。まあそうか、そんなら仕方ないねと言うて、あの徳利に。あれはね、江戸初期の徳利です。もう大変な値打ちのある徳利なんです。だから全然形が違うでしょう。あれは大変一升徳利の、いわゆる値打ちのある徳利なんです。それにコスモスを、それにあしらいの水引き草がさしてあります。コスモスと言や、秋桜とも言う。所謂、あれは寂しい花の表現でもある。コスモスというのは、いっぱい咲いとるけれども、何とはなしに、秋の悲しさとか寂しさを表現する花である。
そういう悲しみもです。のしをつけた上に水引きかけて、というのである。神様にお供えせいという事である。その事によってです。一升徳利です。一生、その事によって徳を受けよというのである。徳と利という事は、所謂おかげという事。徳を受けて利を受けるという事である。『泰子の霊に挨拶させて頂いたら、その愛子が生け上げたばかりの徳利と花をそのまま鮮やかに御心眼に頂くのです。これが泰子の願いである。霊様の願いである。もう、お母さん、又は、勝美さん、どうぞ悲しみは今日を境に、お供えをして下さい、と。それによって、徳を受けて下さり力を受けてもらわなければ、私が死んだ値打ちがない。死にがいがない、と言うならば霊様の言葉をもってするなら、そういう事であろう。』
今日の薬れ祈れにするからおかげにならんというおかげとは、それは病気が治らんとか、退院が出来んとかという事では決してないのである。そういうおかげ。だから、ここで言うおかげにならんというのは、そういう力を受ける事にならないというのである。例えばそんなら、可愛い子供が亡くなる。それを只悲しんでおるというだけでは、只一年たち二年たち、何時の間にか薄らいで諦めが出来たというだけでは、なあにもならんじゃないか。そういう大変な、言うなら悲しい事に直面させて頂いた時に、日頃の信心がものを言う。日頃の信心がそこにです。悲しいけれども有難いという、おかげを頂かせてもらうという事はです。
そういうおかげをここではおかげにならんとおっしゃっておられるそうです。そういうおかげにつながらなければいけません。本当な意味に於てのおかげ。その事を通して、娘の死を通して、力を受ける。私は弟の戦死を通して、徳を受けた力を受けたという事になるのです。神様が又霊様が、妹達母子に求めておられるのは、その事を通して、徳を受け力を受けてくれよという神様の願いが分からせて頂いたら、そういう声を聞かせて頂いたら、成程、子の為に悲しむ親の心にも勝れる神の心をぞ知れという事がです。神様の心に感涙しなければおられない程しのおかげになってくるのです。神様がこのように迄もして、おかげを下さろうとしておる働きを分からして頂くという事になるのです。
祈れ薬れにすればおかげも早いがと、信心を先に立てるこういう難儀な事が起ったが、大体御神意はどこにあったのであろうか。神様の思いがどこにあったのであろうか、と、信心を先に立てる。これ程信心するのに、どうしてこげな事になったじゃろうか、というのではないです。どこに御神意があるのだろうかという時にです。神の心を知る事が出来る。神の心が分からせて頂いたら、叩かれたら痛いのですけれども、痛いけれども有難うございます、というお礼になって、それが大きければ大きいほど、そうなんです。祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。私はここのところを、ただ今迄頂いて来とります。
お薬でも頂く時には、まず御祈念をさせてもろうて、又お取次を先に頂いて、この薬を頂きますから、又はお医者に参りますから、注射をさせて頂きますから、と言うて、祈り願わせて頂けばです。お医者さんならお医者さんの薬の盛り違いという事もない。又は注射の打ち違いをなさるという事もない、程しのおかげを受けられるという事も事実です。だからそういう意味にもここは頂けるのです。けれども段々最後のところを頂いて参りまして、薬れ祈れにするからおかげにならぬ、と断言して、教えられておるところをみると、そういう浅い意味だけではない。これにはもっともっと深い意味のある事を、分からせて頂いて、おかげを頂いておるじゃないかというおかげではなくて、その事を通して分かる信心。その事を通して頂けれる徳と力、そういうおかげにならんというのです。
だから折角信心させて頂くならば、その徳と力を受ける。その事を通して信心が分かるという〔の〕です。おかげを受ける事の信心を目指さなければいけない。それを例えば、今日の黄揚会の方達の入殿の事で言うならばです。正しく所謂、祈れ薬れの生き方をしておられるという事。純粋に、まだ若い二十才余りの人達がみんな集まって、そして本当の信心が分かりたい。いわゆる本気で信心が分かりたい。こういう生き方ならば信心が、おかげが早い。信心が急テンポに進むという事。
おかげの方を先に立てますとです。もうおかげに拘わってしまって、一生おかげ信心、御利益信心、で終ってしまいます。それでは惜しいでしょう。力にもならなければ、言うならあの世にも持ってゆけこの世にも残しておけるもの、こそ、その力であり、徳である。それを身に受ける事の為に、おかげもさる事ながら、信心を先に頂かせてもらおうとする、生き方。いよいよ御教えを頂く事が楽しゅうなり有難うなり、その後におかげの有難さがついてくればいいでしょうが。という事を四十七節では教えてある。言わばそれも暗に教えてあるのですから、これはこちらが気付かなければ、やっぱいけないところだ、暗ですから‥‥。
先程申しますような浅い意味に於てだけ、頂けれるような感じだったけれども。どうもおかしい、薬れ祈れにするからおかげにならん、等とおっしゃるところは、教祖は嘘をおっしゃっておられるような感じ。祈れ薬にしよっても、信心のない人達等は特にお医者にかかって、やっぱり病気が治りよる、薬を飲んでやっぱり治っておられる。おかげになってるじゃないか、と言うと教祖様は嘘をおっしゃってあるようにある。
だからこの教祖様のお言葉を、本当の真意というものを、分からせて頂くとです。私は今日皆さんに聞いて頂いたようなところに、なるのではないかと思うのです。いわゆる信心は祈れ薬れである。祈るという事を先にする。信心という事を先にする、のである。おかげも勿論、それの方が早いのである。本当のおかげが、勿論本当の信心も力も受けてゆかれる訳です。今日は四十七節をそういう意味で、この御教えを最後にあるおかげにならんという、そのところから暗に教えられておるものを少し今日は、分からせて頂いたような気がするですね。どうぞ。